人工知能と建築の仕事と教育

近頃の人工知能の話題を耳にする度にかなり複雑な心境になる。多分それは未来に対する希望と失望が入り混じっていたからだ。少し前までは人間に残された唯一の砦は「創造力」だと信じたい気持ちがあっが、それもただの願望に終りそうだ。建築は20世紀の初頭、コルビジェとミースの出現によってレジュームチェンジした。しかし、残念ながら次のレジュームチェンジは人間ではなさそうだ。それもそう遠くない未来に。我々の仕事の多くが人工知能に取って代わるだろう。建築士の仕事は条件を入力し、出てきた案を選択し、精査するだけになるだろう。条件の入力と選択することしか独自性は担保されない。それで社会は我々を必要とするだろうか?。コンプライアンスはもちろんのこと、施工図、正確な見積まで瞬時に出てきてしまえば、我々に残る仕事は現場監理くらいしかない。それも個人の建築士がやらなければならない必然性はなく、大企業が本気になれば風前の灯。残るは義理人情で食いつなぐか?.笑い話にもならない。

かたや、トップアーキテクトがしのぎを削るコンペも怪しい。優秀な学生を引抜きコンペに挑む。そのスタイルももうそう長くはない。プログラムを入力する数人のスタッフがいれば、人工知能ははるかに斬新で合理的、新奇性に富んだ案を出す。おまけに審査員の傾向と対策まで盛り込んだプレゼが出来上がる。裏を返せば、小さな個人事務所や学生でも大きなコンペを勝ち取るチャンスが出てくる。

一方、心配なのは大学の建築教育だ。今までも多くの学生が生涯ほとんど経験することのない大規模な公共施設の設計をさせられてきた。そして、なんだか本人も実感の湧かないコンセプトとプレゼンテーションの卓越さが評価される。コンセプトとプレゼンテーションはクライアント不在か信頼関係が希薄なほど重要度を増す。人工知能が多くの仕事を奪っていく近い将来、ほとんどの学生は人と人との繋がりでしか生きていく術がない。コンセプトとプレゼンテーションは人工知能の仕事だ。講評会など無駄な授業は一刻も早く止めて、信頼される人間力の種が芽生える教育を始めるべきだ。