建築とはかけがえのない建もののことである

「かけがえのない」とは自然であり、「建もの」とは実用性を持った人工物のことである。この矛盾を合わせ持ったものが建築である。実用は機能に忠実に作ればいいのでそれほど難しくない。しかし、自然はそう簡単ではない。扱いを間違えるとすぐに実用を侵す。そのために日頃から周到な準備が必要である。まさしく「人事を尽くして天命を待つ」は、建築を作るためにある言葉である。
 例えばコンクリート打放しの場合、多くの建築家はセパや型枠の割り方、表面の仕上がりにこだわる。しかし、私はそこには全く関心がない。関心はもっぱら堅牢なコンクリートを打つことだけに集中している。そのためにそれに関わる職人たちの技術とプライドにはこだわる。そこに最大限の力を注ぐ。仕上がりは成り行き任せ。漏水や構造的な問題がなければ、補修など後から手は一切加えない。ありのままを頂く。実用以外は余分な意識を遠ざけ、成り行きに任せることで自然はそっと近づいてくる。
 建築家の意識や意図をそのままリメイクした建築にはあまり魅力を感じない。全く自然を信用していない建築は、意識や意図だけが目立ち、感じることよりも理解を強要する無表情な情報にしか見えない。写真に変換されても全く違和感がないどころか、その方が良かったりする。事実、スマホを見れば世界中の建築が見られる。実写かCGか分からないものだってある。情報は永遠にリメイクされ、その無限ループの中から抜け出せない。しかし、やがて情報は古くなり、煩わしさと実用だけが残る。人が情報に満たされて生涯暮らすのは残酷である。そもそも人は諸行無常の一過性に生きる自然である。自然がなければ生きていけない。建築のあるべき姿は、実用を侵さない範囲でぎりぎり自然で満たすことである。かけがえのない建築は、比較するものが無く計る基準も無い。だから、意味で満たされた世界を解毒できる。